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朗読二宮隆

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科学者とあたま

寺田寅彦

 私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。
 この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることはもちろんである。
 論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。


青空文庫

耳と目

寺田寅彦


 耳も目も、いずれも二つずつ、われわれの頭の頂上からほぼ同じ距離だけ下がった所に開いている。目のほうは前面に二つ並んでほぼ同じ方向を向いているのに耳のほうは両側にあって、だいたいにおいて反対の方向に向いている。もっとも耳たぶがあるために各方の耳が精確にどちらに向いているかという事はそう簡単に言われないが、しかし、この平凡な事実は考えてみるといろいろなおもしろい意義をもっている。
 二つずつあるのは空間知覚のためであって、二つの間の距離が空間を測量するための基線(ベースライン)になるのである。耳と目とが同じ高さにあるのは視覚空間と聴覚空間との連絡、同格化(コーオルディネーション)のために便利であろうと思われる。ところが光線伝播でんぱは直線的であるので二つの目が同時に対象に向かっていなければならない。従って、二つが前面に並んでいないと不都合である。これに反して音の場合には音波が頭で回折されるから、一つの耳の反対の側から来る音でもその耳に到達する。しかし正面から来る音よりは弱く聞こえるのである。それで音源の方向を知るにはむしろ両耳が頭の反対の側にあるほうが好都合なわけになるのである


青空文庫

鉛をかじる虫

寺田寅彦

 近頃鉄道大臣官房研究所を見学する機会を得て、始めてこの大きなインスチチュートの内部の様子をかなり詳しく知ることが出来た。名前だけ聞いたところではたいそういかめしいお役所のような気がして、書類の山の中で事務や手続きや規則の研究をしている所かと想像していたのであるが、事実はまるで反対で、それは立派な応用科学研究所であって多数の実験室にはそれぞれ有為な学者が居て色々有益で興味のある研究をしているのであった。
 色々見せてもらったものの中で面白かったものの一つは「鉛をかじる虫」であった。低度の顕微鏡でのぞいてみると、ちょっと穀象のような恰好をした鉛のような鼠色の昆虫である。これが地下電線の被覆鉛管をかじって穴を明けるので、そこから湿気が侵入して絶縁が悪くなり送電の故障を起こすのだそうである。実に不都合な虫であるが、怒ってみたところで相手が虫では仕方がない。怒る代りに研究をして防禦法を講じる外はないであろう。
 虫の口から何か特殊な液体でもだして鉛を化学的に侵蝕するのかと思ったが、そうでなくて、やはり本当に「かじる」のだそうである。その証拠にはその虫の糞がやはり「鉛の糞」だという。なるほど顕微鏡下にある糞の標本を見るとやはり立派な鉛色をしているようである。
 これらの説明を聞いた時に不思議に思われたのは、鉛を食って鉛の糞をしたのでは、いわば米を食って米の糞をするようなもので、いったいそれがこの虫のために何の足しになるかということである。米の中から栄養分を摂取して残余の不用なものを「米とは異なる糞」にして排泄するのならば意味は分かるが、この虫の場合は全く諒解に苦しむというより外はない。
『西遊記』の怪物孫悟空が刑罰のために銅や鉄のようなものばかり食わされたというお伽話はあるが、動物が金属を主要な栄養品として摂取するのははなはだ珍しいといわなければなるまい。もっとも、人間にでもきわめて微量な金属が非常に必要なものであるということは、近頃だんだんに分かりかけて来ているようではあるが、しかしそれは食物全体に対して10のマイナス何乗というような微少な量である。この虫のように自分の体重の何倍もある金属を食って、その何十プロセントを排泄するというのは全く不思議というより外はないであろう。
 何のために鉛をかじるかが疑問である。送電線の被覆鉛管の内部にどんなものがはいっているか、そんなことを虫が知っていようとは思われないから、虫の目的はやはり鉛自身にあることは明白である。それなら単なる道楽かというに、虫が道楽をするというのも受取りにくい仮説である。何かしらこの虫の生存に必需な生理的要求のために本能的にかじると考える外はないように思われる。
 こんな疑問を起こしているうちに、妙なことを聯想した。
 われわれが小学校中学校高等学校を経て大学を卒業するまでの永い年月の間に修得したはずの知識は、分量で測ることが出来るとすればずいぶん多量なものであろうと思われる。十七、八年の間かじりつづけ、呑み込みつづけて来た知識のどれだけのプロセントが自分の身の養いになっているかと考えてみても、これはちょっと容易には分かりかねる六むつかしい問題である。しかし、ともかくも、学校で教わったことの少なくも何十プロセントは綺麗に忘れてしまっていて、例えば自分等の子供に質問されて即座に明答を与えることが出来ない程度にまで意識の圏外に排泄してしまっているのは事実であるらしい。
 そんなに綺麗に忘れてしまうくらいならば始めから教わらなくても同じではないかという疑問が起こるとすれば、これは自分が今この鉛を食う虫に対して抱いた疑問と少し似た所がある。
「知らない」と「忘れた」とは根本的にちがう。これはいうまでもないことである。しかしそれが全く同じであるとしても、忘れなかった僅少なプロセントがその人にとってはもっとも必要な全部であるかもしれないのである。
 世の中に工率百プロセントの器械は一つもない。注ぎ込んだエネルギーの一部は必ず無駄になって消費される。電燈の場合などでも肝心の光になるエネルギーは消費される電力の割合にわずかな小部分で、あとはみんな不必要な熱となって宇宙に放散する。この、物質界に行われる原理を、鉛を食う虫の場合の生理的現象に応用する訳には行かないし、いわんや人間の精神現象に持ち込むべき所由はもとよりない。それにもかかわらず「無駄を伴わない滓を出さない有益なものは一つもない」という言明は、どうも少なくも一つの作業仮説として試みに使ってみてもいいように思われる。この仮説を許容するか、しないかで結果には非常な差を生じる。この仮説が真ならば、無駄をしないようにするには結局有益なことを一つもしないというより外はなくなる。また有益なことをするためには結局なるべく無駄を沢山にするようにしなければならないということにもなるかもしれない。しかしこの仮説が誤りであって「無駄のない有益なものが可能であり、それが当然である」とすると、無駄は罪悪でないまでも不当然であり不都合である。従って、そういう咎めを受けないためには、結局やはり何もしないで、じっとしているのがいいことになるのである。そうなればすべての活動は停止して冬眠の状態に陥ってしまうであろう。それならばまだまだ安全であるが、排泄物をなくするために食物を全廃すれば餓死するより外はない。
 鉛をかじる虫も、人間が見ると能率ゼロのように見えても実はそうでなくて、虫の方で人間を笑っているかもしれない。人間が山から莫大な石塊を掘りだして、その中から微量な貴金属を採取して、残りのほとんど全質量を放棄しているのを見物して、現在の自分と同じようなことをいっているかもしれない。
 こう考えてみると、道楽息子でもやはり学校へやった方がいいように思われ、分からないむずかしい本でも読んだ方がいいようであり、ろくでもない研究でも、しないよりはした方がいいようにも思われ、またこんな下らない随筆でも書かないよりは書いた方がいいようにも思われてくるのである。
青空文庫

年賀状

寺田寅彦

 友人鵜照君、明けて五十二歳、職業は科学的小説家、持病は胃潰瘍である。
 彼は子供の時分から「新年」というものに対する恐怖に似たあるものを懐ていた。新年になると着なれぬ硬直な羽織はかまを着せられて親類縁者を歴訪させられ、そして彼には全く意味の分らない祝詞の文句をくり返し暗誦させられた事も一つの原因であるらしい。そして飲みたくない酒を嘗めさせられ、食いたくない雑煮や数の子を無理強に食わせられる事に対する恐怖の念をだんだんに蓄積して来たものであるらしい。
 それでも彼が二十六の歳に学校を卒業してどうやら一人前になってから、始めて活版刷の年賀端書というものを印刷させた時は、彼相応の幼稚な虚栄心に多少満足のさざなみを立てたそうである。しかし間もなくそれが常習的年中行事となると、今度はそれが大きな苦労の種となった。わがままで不精な彼にとって年賀状というものが年の瀬に横たわる一大暗礁のごとく呪わしきものに思われて来たのだそうである。
「同じ文句を印刷したものを相互に交換するのであるから、結局始めから交換しないでも同じ事である。ただ相違のある点は国民何千万人が総計延べ時間何億時間を消費し、そうして政府に何千万円の郵税を献納するか、しないかである。」
 こんな好い加減の目の子勘定を並べてありふれの年賀状全廃説を称えていたが、本当はそういう国家社会の問題はどうでもよいので、実際はただせっかくの書きいれ時の冬の休みをこれがために奪われるのが彼の我儘わがままに何より苦痛であったのである。
 字を書くことの上手な人はこういう機会に存分に筆を揮ふるって、自分の筆端からほとばしり出る曲折自在な線の美に陶酔する事もあろうが、彼のごとき生来の悪筆ではそれだけの代償はないから、全然お勤めの機械的労働であると思われる上に、自分の悪筆に対する嫌忌の情を多量に買い込まされるのである。この点はいくらか同情してもよい。
 かくのごとく我儘であるくせにまた甚だしく臆病な彼は、自分で断然年賀端書を廃して悠然炬燵にあたりながら彼の好む愚書濫読に耽ふけるだけの勇気もないので、表面だけは大人しく人並に毎年この年中行事を遂行して来た。早く手廻しをすればよいのに、元日になってから慌てて書き始める、そうして肩を痛くし胃を悪くして溜息をしているのが、傍から見ると全く変った道楽としか思われないのであった。
 ところが、不思議なことに数年前から彼鵜照君の年賀状観が少なからず動揺を始めた。何を感じたかこの頃ではしきりに年賀状の効能と有難味ありがたみを論じるようになった。今までとはまるで反対の説を述べて平気でいられるところが彼の彼らしいところを表現していて妙である。
 どうも彼のいう事には順序というものがないから簡単に要領を捕捉するのが困難であるが、まあ例えばこういう事をいう。
「空間の中にn個の点がある。そのおのおのの点から平均m本の線を引いて他のm個の点に結ぶ。そうすると合計nかけるのm本の線が空間に複雑なる網を織りだす。仮にnが一千万、mが百とすると十億本の線が空間に入乱れる。これらの線が一度はどこかの郵便局へ束になって集められ、そこで選より分けられて、幾筋かの鉄道線路に流れ込み、それが途中で次々に分派して国の隅々まで拡がってゆく。中には遠く大洋を越えて西洋の光の都、南洋のヤシの葉蔭に運ばれる。その数々の線の一つずつには、線の両端に居る人間の過去現在未来の喜怒哀楽、義理人情の電流が脈々と流れている。何と驚くべき空間網ではないか。」
 そういえば、それはそうであるが、何故にそれがそれほど有難いかはわれわれにはよくは分らない。これはたぶん横浜岸壁あたりで訣別の色テープの束の美しさを見て来てから考えたものらしい。
「自分の知人A、B、Cの三人が同じ市の同じ町に住まっている事を、年賀状をより分けてみて始めて気がつく。しかしA、B、C相互になんらの交渉もない赤の他人である。それが遠い所にある自分という一点を通じて空間的に互いに連結されている。そうして見るとAから流れだす電流の一部は廻り廻ってBやCをも通過するかもしれない。これを推し広めて考えると、結局少なくも日本国中のおのおのの人間は全国民のおのおのと切っても切っても切り尽せないほどの糸でつながり合っている訳である。」
 こういう全く分り切った事を、自分で始めて発見したように思って独りで喜ぶのが彼の癖である。またそういう事が何故に年賀状有用論の根拠になるかは、おそらく彼自身の外には分らないであろう。
 彼は時としてまたひどく感傷的な事をいう。「年賀はがきの宛名を一つ一つ書いてゆく間に、自分の過去の歴史がまるで絵巻物のように眼前に展のべられる。もっとも懐かしいのは郷里の故旧の名前が呼びだす幼き日の追憶である。そういう懐かしい名前が年々に一つ減り二つ減って行くのがさびしい。」
 こういって感に堪えないように締りのない眉をあげさげする。
「年賀はがきの一束は、自分というものの全生涯の一つの切断面を示すものである。人間対人間の関係というものがいかに複雑多様なものであるかを示す模型のようなものである。人情と義理と利害をXYZの座標とする空間に描きだされた複雑極まりない曲面の集合の一つの切り口が見える。これをじっと眺めていると、面白くもあれば恐ろしくもある。」
 何かというとすぐに「XYZの座標」を持ちだすのが彼の一つの癖である。これさえ持出せば科学者でない多数の人々を無条件に感心させる事が出来るとでも思っているらしい。それはとにかく、彼が近頃急に懐旧的レトロスペクティブの傾向を帯びて来たのはどういう訳であろう。人は水に溺れんとする瞬間に過去の生涯全部の幻影を見るそうである。事によると彼もさきが短くなった兆ではないかと密かに心配している友人もある。そのせいでもあるまいが、彼がこの頃年賀状の効能の一つとして挙げているのは、それが死んだ時の通知先名簿の代用になるという事である。実際彼の場合にはこれが非常に役立つに相違ない。彼の知人名簿には十年も前に死んだ人の宿所がそのままに残っていて、何の符号も付いていない。また同じ人の名が色々な住所と結合してぱらぱらに散在しているので、どれが現住所であるか、当人でさえ時々間違えることがありそうである。年賀はがきを大切にしまっておくのももっともな訳である。ただし市会議員のよこしたのだけは紙くずかごに入れるようである。また自分の住所をかかないでよこすのはこの目的を達しないといってこぼしている。ずいぶん勝手なことをいうのである。
 そうかと思うとまた彼はこういう気焔を吐く事もある。「ある僕の全く知らない人の年々に受取る年賀はがきの束を僕に貸してよこせば、それを詳しく調べた上で、その人の年恰好、顔形、歩き振り、衣服、食物の好みなどを当てて見せる」という。しかしそれくらいの事が自慢になるようであったら世の中に易者や探偵という商売は存在しない訳であり、奥歯一本の化石から前世界の人間や動物の全身も描きだすような学者はあり得ない訳である。
 色々と六かしい、しかもたいていはエゴイスティックな理窟を並べてはいるようであるが、結局は、当り前分り切った年賀状の効能を五十の坂を越えてから始めてやっと気のつくようになったのであるらしい。いったいこれに限らず彼の考える事、する事はたいがい人よりちょうど一時代だけ後れているようである。幸いに永生きをして八十くらいになったら、その時にそろそろマルクス、エンゲルスの研究でも始めるだろうと皆でうわさをすることである。しかし負け惜しみの強い彼の説によると「世界は循環する。いちばんおくれたものが結局いちばん進んでいることになる」というのである。別に議論にもならないから、われわれ友人の間ではただ機嫌よく笑ってすむのである。
 友人鵜照君の年賀状観の変遷史をここに御紹介して読者の御参考あるいはお笑い草に資するのである。
青空文庫


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