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岡田慎平芥川龍之介鼻
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あさましきもの

太宰治

賭弓に、わななく/\久しうありて、はづしたる矢の、もて離れてことかたへ行きたる。
 こんな話を聞いた。
 たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがいた。男は、この娘のために、飲酒をやめようと決心した。娘は、男のその決意を聞き、「うれしい。」と呟いて、うつむいた。うれしそうであった。「僕の意志の強さを信じて呉れるね?」男の声も真剣であった。娘はだまって、こっくり首肯ずいた。信じた様子であった。
 男の意志は強くなかった。その翌々日、すでに飲酒を為した。日暮れて、男は蹌踉、たばこ屋の店さきに立った。
「すみません」と小声で言って、ぴょこんと頭をさげた。真実わるい、と思っていた。娘は、笑っていた。
「こんどこそ、飲まないからね」
「なにさ」娘は、無心に笑っていた。
「かんにんして、ね」
「だめよ、お酒飲みの真似なんかして」
 男の酔いは一時にさめた。「ありがとう。もう飲まない」
「たんと、たんと、からかいなさい」
「おや、僕は、僕は、ほんとうに飲んでいるのだよ」
 あらためて娘の瞳を凝視した。
「だって」娘は、濁りなき笑顔で応じた。「誓ったのだもの。飲むわけないわ。ここではお芝居およしなさいね」
 てんから疑って呉くれなかった。
 男は、キネマ俳優であった。岡田時彦さんである。先年なくなったが、じみな人であった。あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり述懐して、行儀よく紅茶を一口すすった。

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2018-01-22

Nao